みんなのテスト
問題を解くことから、問題を作ることへ

テストは、生徒だけのものではない。
小学生の頃、自分はそんなふうに考えていました。
もちろん、当時から難しい教育論を考えていたわけではありません。
ただ、かなり単純に考えていました。
先生の授業を真剣に聞く。
学校以外では一切勉強しない。
その状態でテストを受ける。
その点数は、自分だけの点数なのか。
それとも、先生の授業がどれだけ自分に届いていたかを測る点数でもあるのか。
自分の中では、テストとは個人的な「先生のテスト」でもありました。
もちろん、立派な理由だけでやっていたわけではありません。
本音を言えば、ただ勉強する時間を少なくしたかっただけです。
家で勉強したくない。
塾にも行きたくない。
学校が終わったあとの時間まで、勉強で埋めたくない。
だったら、学校にいる時間だけで完結させるしかない。
だから授業は真剣に聞いていました。
学校以外で勉強しないために、学校の時間をちゃんと使う。
今思えば、それは怠けたい気持ちから生まれた、自分なりの効率化だったのだと思います。
テスト前に、家で何時間も勉強する。
塾で別の先生に教わる。
追加で問題集を解く。
もちろん、それが悪いわけではありません。
努力することは大事です。
でも、子どもの頃の自分は、そこに少し違和感を持っていました。
学校の授業を受けたあとに、家や塾でさらに勉強してからテストを受けると、その点数が何によって生まれたものなのか、わかりにくくなります。
学校の授業が良かったのか。
家での勉強が効いたのか。
塾の教え方が良かったのか。
本人が長い時間をかけたから点が取れたのか。
いろいろな要素が混ざってしまう。
そうなると、テストは「授業でどれだけ理解できたか」を測るものではなく、「それぞれが学校の外でどれだけ追加の努力をしたか」を測るものに近くなってしまいます。
それは少しフェアではないと思っていました。
もちろん、これを実践できるのは、毎日ちゃんと学校に来て、授業を真面目に受けている人だけです。
だから自分は、授業中はかなり真剣でした。
学校以外で勉強したくないなら、学校にいる時間をちゃんと使うしかない。
かなり単純です。
でも、単純だからこそ、自分の中では筋が通っていました。
テストの点数を見るとき、本当に見るべきなのは、生徒の努力だけではありません。
その授業は伝わっていたのか。
その説明はわかりやすかったのか。
その問題の作り方は適切だったのか。
その教育の仕組みは、子どもが学びたくなる形になっていたのか。
そこまで見ないと、テストはただ点数をつけるだけで終わってしまいます。
でも本来、テストは改善のためのデータにもなるはずです。
点数が低かったときに、生徒だけを責めるのではなく、授業や仕組みも見直す。
先生も、授業も、教育システムも、そこから学べる。
だからテストは、生徒だけのものではありません。
みんなのテストです。
生徒のテストであり、
先生のテストであり、
授業のテストであり、
教育システムのテストでもある。
そう考えると、点数の見え方は少し変わります。
そして、学校の外の時間にも価値があります。
家で勉強できない子もいる。
スポーツをしている子もいる。
本を読む子もいる。
ピアノを弾く子もいる。
ゲームをする子もいる。
プログラミングをする子もいる。
家族の手伝いをする子もいる。
兄弟に勉強を教えている子もいる。
その時間は、決して無駄ではありません。
学校で学んだことを、生活や遊びや人との関係の中で使っていく時間でもあります。
勉強の良さは、机の上だけで完結することではありません。
学校で得た知識を、学校の外でどう使うか。
自分の時間をどう使うか。
何に夢中になるか。
誰かの役に立てるか。
何を試してみるか。
そこにも、学びの本質があります。
だから、学校の外の時間まで全部「追加の勉強」で埋める必要はないと思います。
学校の中でちゃんと学び、学校の外でそれを活かす。
その方が、学びは社会につながります。
自分は算数が好きでした。
理由はシンプルです。
式を覚えて、正しく使えば、必ず答えが出るからです。
算数は、手順を間違えなければ答えにたどり着ける。
だから100点も取りやすかった。
そして100点が取れなかったときも、理由がわかりやすい。
式を間違えたのか。
計算を間違えたのか。
問題文を読み違えたのか。
見直しをしなかったのか。
だいたい原因が見えます。
原因が見えると、直せます。
直せると、成長できます。
だから算数は、自分にとって、とても納得感のある教科でした。
どこでどう間違えたのかがわかりやすい。
何を直せばいいのかが見えやすい。
次に同じミスをしなければ、点数に反映される。
この構造が好きでした。
でも、100点がずっと取れるようになると、だんだんつまらなくなります。
なぜなら、答えはもう出るからです。
この式を間違えずに使えば、答えは出る。
そうわかってしまうと、答えを出すこと自体にはあまり興味がなくなっていきました。
その代わりに楽しくなったのが、自分で式を作ることでした。
どういう式を作れば、答えにたどり着くのか。
どんな条件を入れれば、面白い問題になるのか。
別の見方をしたら、違う式になるのか。
自分にとっては、答えを出すことではなく、式を作ることが答えだったのです。
これは、今考えるとかなり大事な感覚です。
問題を解くことも大事です。
でも、問題を作ることはもっと大事です。
用意された問題を解く力。
それはもちろん必要です。
でも、自分の中から問いを作る力がなければ、学びはずっと受け身のままになります。
これはなぜなのか。
本当にそうなのか。
別の見方はないのか。
この仕組みは誰のためにあるのか。
もっと良くする方法はないのか。
そうやって問いを立てられる人は、自分で学びを進められます。
今の学校の仕組みがどうなっているか、正確にはわかりません。
でも、必ず最初にやった方がいいと思うことがあります。
それは、学び方を学ぶことです。
何を覚えるかの前に、どう学ぶかを学ぶ。
そして、いろんな教科を学ぶ前に、自分の使い方を学ぶ。
自分は、何を聞くと理解しやすいのか。
何を書くと整理できるのか。
どう話すと、自分の考えが見えてくるのか。
どこで集中できて、どこで飽きるのか。
つまり、自分のインプットとアウトプットの仕組みを知ることです。
見る。
聞く。
考える。
書く。
話す。
試す。
失敗する。
直す。
また試す。
この往復の中で、学びは自分のものになっていきます。
だから本当は、最初に必要なのは、教科を覚えることだけではなく、自分の脳の使い方を知る時間だと思います。
算数、国語、理科、社会。
もちろん教科として分けることにも意味はあります。
でも生活の中では、それらは最初からつながっています。
買い物には算数がある。
説明することには国語がある。
観察することには理科がある。
人や仕組みを見ることには社会がある。
何かを作ることには図工も技術も入ってくる。
学びは本来、もっとシームレスです。
教科を別々に覚えるだけではなく、どうつなげて使うか。
そこまで含めて、学び方を学ぶことなのだと思います。
人間の脳は、パソコンのストレージのように単純に「何TB(テラバイト)」と測れるものではありません。
ただ、よく言われる目安では、記憶容量は約2.5ペタバイト、つまり約2,500TBほどあるとも言われています。
かなり大きな容量です。
でも大事なのは、どれだけ詰め込めるかではないと思います。
パソコンでも、いらないファイルや使わないアプリが増えすぎると、動きが鈍くなります。
人間も似ています。
今すぐ使わない情報を、ただ先に覚え続けるよりも、その都度必要なものを取り出し、考え、組み合わせ、使える形にする方がいい。
これからの学びは、全部を頭の中に保存しておくことではないと思います。
必要なときに、サクッと作り出せること。
調べる。
考える。
試す。
組み合わせる。
使う。
また直す。
その動きができれば、頭の中を常に重くしておく必要はありません。
基本は素手でいる。
でも、必要なときにすぐ道具を持てる。
その軽さが、これからの学びにはかなり大事だと思います。
知識を持たないという意味ではありません。
知識を固定して抱え込みすぎないということです。
すぐ使うものは覚える。
何度も使うものは身につける。
今使わないものは、必要になったときに取りに行く。
そして、取りに行き方を覚えておく。
その方が、頭は軽く動きます。
学び方を学ぶとは、こういうことでもあります。
何を今覚えるのか。
何をあとで取りに行くのか。
何を自分の外に置いておくのか。
何を自分の中に残すのか。
その判断ができるようになることです。
少し極端に言えば、小学校低学年のうちから、社会と接続する経験があっていいと思っています。
小1のうちから、自分の学びがどこで使えるのかを知る。
小2で、中学生がやるようなことに触れてもいい。
小3で、高校生が考えるような問いを持ってもいい。
小4で、大学生のように調べたり、発表したりしてもいい。
小5で、小さな事業のようなものを作ってみてもいい。
年齢で学びを区切りすぎる必要はないと思います。
大事なのは、難しいことを無理やり先取りすることではありません。
今の自分に使える形で、社会とつなげることです。
自分は低学年の頃から、働く大人の近くにいました。
ものを見て、値段を考えて、人と話して、運んで、並べて、売れる瞬間を見ていました。
だからこそ、学びは机の上だけで起きるものではないと感じています。
計算は、お金や数を扱うときに使う。
国語は、人に伝えるときに使う。
観察力は、ものを見るときに使う。
社会は、人の動きや仕組みを見るときに使う。
学びは、生活や仕事や遊びの中で使われて初めて、自分のものになります。
「将来役に立つから」ではなく、「今役に立つ」と感じられる環境をつくる。
それが、これからの教育にはかなり大事だと思います。
そして今は、AIがあります。
もし今、自分が勉強するとしたら、復習よりも予習をすると思います。
ただ先に教科書を読む、という意味ではありません。
自分で問題を作る。
自分で考えて解いてみる。
そのあとで授業を受ける。
授業は、答えを教えてもらう時間というより、自分の考えを照らし合わせる時間になります。
自分の考え方は合っていたのか。
どこが足りなかったのか。
先生はどう説明するのか。
他の人はどこに疑問を持つのか。
自分にはなかった視点はどこにあるのか。
そうやって、授業を穴埋めや開拓の時間に使う。
これはかなり強い学び方だと思います。
AIを使えば、自分で問題を作ることもできます。
「このテーマで問題を作って」
「もっと難しくして」
「反対の立場から問題を出して」
「小学生にもわかる問題にして」
「答えがひとつに決まらない問いにして」
そうやって、リアルタイムに自分用の問題を作れます。
さらに先に行くなら、自分で作った問題をAIに解かせることもできます。
AIに解かせる。
その答えを見る。
そこに違和感を持つ。
もっと良い問いに作り直す。
そして、AIでも簡単には解けない問題を作っていく。
これは、かなり面白い遊びであり、かなり実用的な勉強です。
AIでも解けない問題を作ろうとすると、必ずどこかで気づきます。
まだ人間にしか解けない問題があることに。
もっと言えば、自分にしか作れない問題があることに気づきます。
その人が見てきたもの。
経験してきたこと。
違和感を持ったこと。
好きだったこと。
嫌だったこと。
ずっと考えてきたこと。
そこからしか生まれない問いがあります。
全員が同じ問題を解くことも、もちろん大事です。
でも、これからの時代はそれだけでは足りません。
それぞれにしか作れない問題がある。
それぞれにしか解けない問題がある。
そこに気づけることが、本当の意味での学びだと思います。
子どもが大人に問題を出せるようになる。
これは、とても良い状態です。
大人が子どもに問題を出すだけではなく、子どもも大人に問いかける。
なぜこうなっているの?
なぜこれは正しいことになっているの?
なぜこのやり方を続けているの?
もっと違う方法はないの?
そう聞ける子どもは、ただ反抗しているわけではありません。
世界をよく見ています。
仕組みを見ています。
自分の頭で考えています。
そして、その問いに大人がちゃんと向き合うことで、大人も学び直すことができます。
教育は、子どもだけが成長する場所ではありません。
先生も、親も、大人も、仕組みも、問い直される場所です。
テストは、生徒だけを測るものにあらず。
それは、先生を測る。
授業を測る。
教育システムを測る。
そして、子どもの生活に学びの余白を残せているかも測る。
そう考えると、テストはただの点数ではなくなります。
学び方そのものを見直すための鏡になります。
これからの時代は、問題を解く力だけでなく、問題を作る力も大事になります。
AIが答えを出せる時代だからこそ、人間は問いを作る。
その問いの中に、その人にしか見えない世界があります。
答えを出すことが、すべてではない。
自分にとっては、式を作ることが答えだった。
そしてたぶん、これからの学びもそこに向かっていくのだと思います。
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